2007年10月12日金曜日

ヤマトタケルの墓か?白鳥古墳


 白鳥古墳は東広島市高屋町郷、標高453mの通称白鳥山の山頂に所在した古墳です。
 白鳥神社はヤマトタケルノミコトを中心に祭る神社で、ヤマトタケルノミコトが伊勢の国で亡くなった時に白鳥となり、大和、河内、讃岐の国を巡ってこの山の山頂で姿を消したという伝説からこの名前が付けられています。(右の写真の鉄塔が立っている山が白鳥山)
 この古墳は、古くから神社が建てられていたため、古墳の盛り土はほとんど破壊されていましたが、1910(明治43)年の社殿再建の時に土を削ったところから、石棺(せっかん)または竪穴式石室(たてあなしきせきしつ)と考えられる箱の形をした石組みが掘り出され、その中から三角縁獣文帯三神三獣鏡(さんかくぶちじゅうもんたいさんしんさんじゅうきょう)・三神三獣鏡(さんしんさんじゅうきょう)・碧玉製勾玉(へきぎょくせいまがたま)・素環頭大刀(そかんとうたち)が出土しました。
 さて、この古墳がいつの頃に造られたかは、情報が少ないためはっきりとは断定できないのですが、4世紀の終わりの頃(古墳が造られた時代の最初の頃)といわれています。この頃の東広島市では、残念ながら鍵穴の形に似ていることで知られている前方後円墳(ぜんぽうこうえんふん)は造られておらず、才が迫(さいがさこ)第1号古墳といった鉄の道具をたくさん副葬した四角い形をした古墳が造られているぐらいです。本格的な首長と呼ばれる強い力を持ったリーダーが登場するまでは、まだいたらなかったようです。それはもう少し後の三ッ城古墳の主の登場を待たなければなりません。
 このような経緯から古墳そのものはなくなってしまいましたが、副葬品は保存されています。これらの副葬品は広島県の重要文化財に指定されており、東広島市立中央図書館内の三ツ城古墳ガイダンスコーナーに展示されています。
 また、古墳時代の人々がどのような思いでこのような高いところに白鳥古墳を造ったのかを考えるためには白鳥古墳へいくことをお勧めします。現在は車でも登れるので、休日にでも散歩に出かけてはいかがでしょうか?

※三角縁神獣鏡・・・鏡のふちが断面三角形状になる鏡。鏡の裏面には中国の仙人や神獣が描かれる。中国の魏の皇帝が卑弥呼に与えた『銅鏡百枚』の内のひとつとされるが、真偽については現在も学会で論争がおこなわれている。

※素環頭大刀・・・環状の柄頭を持つ刀の一種。日本では弥生時代から存在する。

※碧玉製勾玉・・・一般に考古学では碧玉とは不透明な緑色、または青緑色の美しい石材のことを言う。勾玉はC字状に湾曲し、丸く膨らんだ側に穴を通した装身具。旧石器時代の終わりごろから、古墳時代にかけての長い時代にわたってに存在する。

2007年10月1日月曜日

安芸津諸島巡り その2 龍王島



“三津の桃島花咲く頃は浪の色まで赤くなる”

 第二回目となる今回は、龍王島について記述したいと思います。安芸津湾内では3番目に大きい島で無人島です。別名【桃島】とも言われ、地元の方には桃島の方が通りがよいようです。かつてこの島がまだ個々人の所有地で耕作が行われていた頃は、春先に風早駅から安芸津湾を眺めると、桃島が桃の花で埋まり、島も海も美しく輝いていました。

 『賀茂郡志』によると「早田原村に属す南海上二十町にあり、周回二十町丘陵をなし果樹栽培地たり、」とあります。風早村の歴史を綴った『手鑑扣』には「江戸時代は御建山(藩有地)で松の他余り木がなかったが不思議に良い水が湧き出た。古より龍王社を祭っていた」との記載があります。この社が後述する龍伝説と島の名前に由来すると思われます。

 江戸の文化年間、賀茂郡上三永村の医師藤原春閣が藩主浅野斉粛より褒美としてこの島を拝領し、その後三津の人荒谷超松の所有となり、明治十五年(1882)八月にコレラが流行した時は、荒谷一家はこの島に避難したようです。大正三年頃には「殆んど全部開墾せられて丘陵をなし柑橘類を栽培していた。」と『賀茂郡志』にありますが、第一回目で取り上げた藍之島と違いこの島に人が定住する事はなく、耕作も船による渡り作で行われていました。

 昭和十年八月二十三日、酒造家荒谷繁樹(超松)氏宅を俳人河東碧梧桐(かわひがしへきごとう)が突如訪問し、先日【三呉線十勝(現JR呉線)】の第四位に当選したという榊山公園や桃島(龍王島)、藍島(藍之島)をほろ酔い機嫌で探勝したと伝えられています。

太平洋戦争の末期になると、軍はこの島に防虫剤製造工場建設を計画し、荒谷超松より一万二五〇〇円で買い上げたが、終戦となったので再び地主の荒谷氏の手に戻った。しかし農地解放により小作人や大長村の人の所有地となり、結局荒谷氏はこの島を手放さざるを得なくなりました。その後島は企業による買収→開発という変遷を辿り、現在は自然体験村が建設され、毎年多数の方がキャンプや体験学習に利用されています。

 龍王島には「龍王島と三尾の毒龍」の伝説が伝わっています。

延暦九年、今からおよそ千二百年も前の遠い昔の伝説です。当時風早浦には古くから龍が住んでいました。相当の年数を経た龍で、人間に化けるのはお手の物でした。美しい娘に化けたその龍は村の若者の花嫁になりました。真夜中には龍の姿に戻り海に出て水浴びをし、家に帰っては若者と夫婦として暮らしていました。

 ある日のこと、妻の着物の裾に藻がついているのを不審に思った夫が、寝たふりをして妻が家を出た後を尾行し、海で龍の姿となって水浴びをする姿を見てしまいました。夫に正体を見破られた龍は三津の三尾山へ飛んで行き、山の岩穴に隠れてしまいました。この岩穴にはよい岩清水が沸いていて、村人たちはこの水で生活をしていたので、そこを赤青白の三本の尾を持つ龍が塞いだので水が出なくなり、近寄ると龍の毒気にあてられ、その年は旱魃も重なり困ってしまいました。現在の三尾(ミオ)という地名はこの三本の尾の毒気とつながるという説があります。

 このことを知った旅の老僧が、龍を退治する為の祈祷を行ったところ、龍は雷鳴を轟かせながら、風早浦の沖の海に沈んでしまい。この龍が島となったと言われています。

                  参考 安芸津風土記

                              広報あきつ昭和623月号 

2007年9月12日水曜日

安芸津諸島巡り その1 藍之島(あいのしま)






 東広島市安芸津町は東広島市内で唯一の海に面した土地で、その歴史は海とともに歩んできたといっても過言ではありません。又安芸津湾内には有人・無人を含めて大小8つの島が存在し、それぞれに興味深い逸話や歴史が伝えられています。今回『東広島歴史散歩』に掲載するにあたり、安芸津湾に浮かぶ島々の足跡を掘り起こしてみようと思います。

 第一回目として取り上げる藍之島は安芸津湾内で2番目に大きい島で、現在は無人島ですが過去には人も住んでいました。この島について『芸藩通誌』には、「阿井島、三津村に属す、村の南海上一里余にあり、周十町許、高一町に足らず、故に、平山とも呼ぶ、」とあります。文化年間に伊能忠敬が行った測量によると藍之島は「周囲十二町四十七間」とありますが、当時と比べ、海岸沿いの土地は波による侵食を受けている為、現在の周囲はこれよりも少なくなっている可能性があります。

 この島は初め芸州藩の直轄地でしたが、寛永二年(1749)当時の年寄役、木原保右衛門が三津村の所有とする旨を申請し許可をされ、その後保右衛門の所有となりました。

 木原家の島となり、樹木植え付け別に数本の桜樹を植え付けたので、満開の候は近隣子女の遊覧地となっていたと云われています。木原新六の代に「大長浦の伴助に半分が売り渡され、伴助は作人を使って土地を開墾し、麦芋をうえた」と『三津村用所書付』にあり、この頃から藍之島の入植と開墾が本格化したのだと思われます。

大正三年頃には戸数十数戸があり、それぞれ耕作に従事しており、島の子供は本土の学校ではなく島にある小屋で教育を受けていました。本土より教師が渡船し、藍之島で授業をした後一泊し、次の日は大芝島に渡船し授業を行いそのまま本土に帰る。というサイクルでした。これをわずか二人の教師が持ち回りで行っていたそうで、台風で海が時化らない限り休むことが出来なかったため大変だったようです。

昭和十五年七月、広島鉄道局はこの島にテント村を建設し、島の南側に町立海水浴場がつくられました。しかし、かつて藍之島で生活をしていた人々は段々と島を離れ、昭和五十年代には平素は島に居らず、蜜柑の採取時に藍之島に寝泊りする程度になりました。現在に至っては、島の大部分が企業に買収された経緯もあり、耕作も行われず荒れるに任されています。

 藍之島には明神祠があります。これは先述の木原保右衛門が寛永四年辛末二月十四日に勧請し建立されました。これを光海神社(光海大明神)といい、正徳・元文年間の郡村高帖、初等記の三津村の項に藍之島明神の名があります。祭りは二月端午社人抱えとあり、榊山神社の管理下におかれ現在でも行われています。旱魃の年には、七月七日夜雨乞祈祷を行って後、渡舟で藍之島に参拝して行事を終る習慣になっていたという事です。

 明神の帆掛船は三津八景の一つに数えられています。

                                    参考 安芸津風土記

2007年8月6日月曜日

ひがしひろしまの地名 その3 「土与丸」

 西条町土与丸(どよまる)は西条の中心市街地の東側に広がる田園地帯です。ここはかつて,周辺の吉行,助実,四日市次郎丸とともに,寺町村と呼ばれていました。広大であったため,室町時代くらいから,それぞれ寺町村吉行方,寺町村助実方などと呼ばれるようになりました。
 吉行や助実,次郎丸などは人の名前のような地名ですが,これは平安末から鎌倉時代にかけて広く見られるようになる「名」(みょう)と呼ばれる行政単位の名残と思われます。ある一定の範囲の耕地から上がる年貢を取りまとめる人の名前をその耕地群に付けたものです。代が替わって他の人が年貢を取りまとめるようになっても代々その耕地群は○○名というように初代?の名前で呼ばれました。
 一方,土与丸は人名によく使われる「丸」という字がついていますが,人名ではなく,別の意味があるようです。
 土与丸地区には、「牛満長者」(うしまんちょうじゃ)という伝説があります。この伝説は、昔々土与丸に焙烙(ほうろく)を行商する男がおり、ある時松子山という峠道にさしかかると1頭の牛が弱ってうずくまっていた。かわいそうに思った男は弁当を食べさせてやった。こんなことが何日かあったが、ある日牛はついに死んでしまっていた。男がその牛に触ると牛は壊れて金になり、男は長者となって「牛満長者」と呼ばれたというものです。牛満長者の屋敷跡は「長者屋敷」と呼ばれ、敷地内には大量のスクモ(籾殻)を捨てた為にできたとされる「糘塚」(すくもづか)と呼ばれる土盛が残っています。この長者屋敷は「城の土居」とも呼ばれ、周辺には「城の橋」などの地名も残っており、周囲に堀跡が残る中世の平城跡です。城主の名などは、「牛満長者」としか伝わっていませんし、時代も不明ですが、土与丸地区で大きな勢力を誇った豪族であったことが推測できます。その屋敷と伝えられる「城の土居」はこの地区の中心的な存在だったと言えます。
 「土与丸」の地名は、この「城の土居」がかつて「土居丸」と呼ばれていた名残ではないでしょうか。土居丸のドイがドヨとなまって「土与丸」と表記されるようになった。このように考えるのがもっとも自然ではないかと考えています。

2007年6月8日金曜日

ひがしひろしまの地名 その2 「東子」

 西条町田口に「東子」(あずまこ)と呼ばれる字(あざ)がある。域内には「吾妻子の滝」(東子の滝)という落差15m程の立派な滝があり,市内ではよく知られた地名である。
 ここにひとつの伝説がある。
 吾妻子の滝は,元「千尋の滝」と呼ばれていた。平安時代末の治承4(1180)年,平家追討のため以仁王の令旨に応じて挙兵した源三位頼政が平家に破れ,自害すると,その室菖蒲の前(あやめのまえ)は追手を逃れ,幼子とともに安芸国賀茂郡西条千尋の滝の岩屋に身を隠した。しばらく後,幼子は病死し,悲嘆にくれた菖蒲の前は,「吾妻子や千尋の滝のあればこそ広き野原の末をみるらん」との和歌を詠じた。それ以来,千尋の滝は吾妻子の滝と呼ばれるようになり,滝のある一帯を東子と呼ぶようになったと伝えられる。
 菖蒲の前の伝説は,市内の各所に残り,西条盆地の伝説に彩を添えている。
 しかし,江戸時代末期に書かれた「田口村国郡志御用ニ附下調書出帳」によれば,「東子」の地名は,田口村を大きく3つに分けた際の呼び方,西から「西郷」「中郷」「東郷」(あずまごう)のうち,「東郷」が誤って東子と書かれたものであり,滝も「東郷の滝」であったものが,「東子の滝」とされたものであるとしている。現在の田口にも「中郷」の地名は残っており,ロマンチックとはいい難いが,どうもこちらの方が真相に近そうである。菖蒲の前の伝説は,東子の地名から連想された創作と考えたほうが良いのかもしれない。

2007年6月4日月曜日

豊栄町苦ノ辻出土の魚化石の紹介

1989年5月に、豊栄町吉原苦ノ辻で中生代白亜紀の魚の化石が発見されました。当地の地層は高田流紋岩で形成されており、その中の中生代白亜紀に形成された擬灰質泥岩層の中から発見したものです。これまでほとんど化石の報告がなかった高田流紋岩層中からの化石の発見というだけでなく、広島県では最も古いセキツイ動物化石の発見という意味で、大変意義深いものです。化石の分類名は、国立科学博物館の上野氏の鑑定により、以下のように判明しています。残念ながら頭部が欠けているため種の決定はできていません。現生の魚類ではニシン類の祖先と考えられています。化石が生息していた時代は地質図などの資料から中世代白亜紀と考えられています。  魚類片  硬骨魚網 class Osteichthyes 条鯵亜網 subclass Actinoptery 真骨魚下網 infraclass Teleostei 2000年8月に旧賀茂郡豊栄町教育委員会により豊栄町指定天然記念物となり、2005年2月の東広島市との合併により、現在は東広島市指定天然記念物となっています。  見学の際は、東広島市吉原公民館をお尋ねいただくと、現地の詳しい場所を教えていただけます。ぜひ一度広島県で最も古い化石の産出地を尋ねてみてください。

2007年5月31日木曜日

ひがしひろしまの地名 その1 「西条東」

 東広島市の中心部に当たる西条町西条は、酒造りで知られ、毎年秋には「西条酒まつり」という、それはそれは楽しい祭が開催される。江戸時代の宿場町であったため、現在も酒蔵通りと呼ばれる界隈を中心に江戸から明治、昭和初期の風情を残している。
 さて、その西条の町並みの西のはずれ一帯を「西条東」という。江戸時代は西条東村であった。
西条の西側にあるのに「西条東」である。
 実はこの地名には平安時代以来のこの地域の歴史が深くかかわっている。
 現在の「西条」と「西条東」を隔てる小さな川を「半尾川」(はんのおがわ)という。
 ところで「西条」とは、本来律令の頃に整備され始めた条里制にかかわる地名であり、西側の条理を意味する。もちろん単独で存在するのではなく、「東条」と対になるものである。
 この地域にももちろん「東条」が存在した。その東条と西条の境界が先の「半尾川」なのである。
 西条盆地という広島県の西半分(安芸国)で最も広い平地が、「半尾川」を境に東と西に分けられていたのである。
 つまり、「西条東」は、文字通り西条の東のはずれにある村だったのである。
 酒蔵通りのある「西条」は東条に属していたのである。それがなぜ「西条」と呼ばれるようになったのか。
 「東 条郷」「西条郷」と平安時代以来呼ばれていたこの地域は、南北朝時代頃から二つを合わせて「東西条」(とうさいじょう)と呼ばれるようになる。それが 戦国時代くらいになると、頭の「東」という文字が取れて「西条」とのみ呼ばれるようになる。「東西条」というのは西条盆地だけでなく、最終的には東広島市 域の大部分の呼び名となっていたので、「西条」自体の示す範囲も非常に広域のものになってしまった。
 その結果、「西条」で最もにぎやかだった江戸 時代の宿場町「四日市村」が西条の中心になったのである。そして、狭義の「西条」が「四日市宿」を指すように なってしまったため、本来「西条郷」の東端であった「西条東」が「西条」の西側になってしまうという逆転現象が起きてしまったのである。

2007年5月30日水曜日

文化財センターからのお知らせ

 東広島市文化財センターは、市民のみなさまを中心として、市内の文化財について広くご紹介する「広報・教育普及活動」を事業の一つとして行っております。
 このたびのホームページ開設に伴って、「市内の文化財をより市民のみなさまにとって身近なものに。」という考えから、『ひがしひろしまの歴史散歩』というブログを立ち上げることといたしました。
 このブログが、市民のみなさまを始め、多くのみなさまに愛されるブログとなれば幸せです。

 東広島市文化財センター 職員一同