2007年8月6日月曜日

ひがしひろしまの地名 その3 「土与丸」

 西条町土与丸(どよまる)は西条の中心市街地の東側に広がる田園地帯です。ここはかつて,周辺の吉行,助実,四日市次郎丸とともに,寺町村と呼ばれていました。広大であったため,室町時代くらいから,それぞれ寺町村吉行方,寺町村助実方などと呼ばれるようになりました。
 吉行や助実,次郎丸などは人の名前のような地名ですが,これは平安末から鎌倉時代にかけて広く見られるようになる「名」(みょう)と呼ばれる行政単位の名残と思われます。ある一定の範囲の耕地から上がる年貢を取りまとめる人の名前をその耕地群に付けたものです。代が替わって他の人が年貢を取りまとめるようになっても代々その耕地群は○○名というように初代?の名前で呼ばれました。
 一方,土与丸は人名によく使われる「丸」という字がついていますが,人名ではなく,別の意味があるようです。
 土与丸地区には、「牛満長者」(うしまんちょうじゃ)という伝説があります。この伝説は、昔々土与丸に焙烙(ほうろく)を行商する男がおり、ある時松子山という峠道にさしかかると1頭の牛が弱ってうずくまっていた。かわいそうに思った男は弁当を食べさせてやった。こんなことが何日かあったが、ある日牛はついに死んでしまっていた。男がその牛に触ると牛は壊れて金になり、男は長者となって「牛満長者」と呼ばれたというものです。牛満長者の屋敷跡は「長者屋敷」と呼ばれ、敷地内には大量のスクモ(籾殻)を捨てた為にできたとされる「糘塚」(すくもづか)と呼ばれる土盛が残っています。この長者屋敷は「城の土居」とも呼ばれ、周辺には「城の橋」などの地名も残っており、周囲に堀跡が残る中世の平城跡です。城主の名などは、「牛満長者」としか伝わっていませんし、時代も不明ですが、土与丸地区で大きな勢力を誇った豪族であったことが推測できます。その屋敷と伝えられる「城の土居」はこの地区の中心的な存在だったと言えます。
 「土与丸」の地名は、この「城の土居」がかつて「土居丸」と呼ばれていた名残ではないでしょうか。土居丸のドイがドヨとなまって「土与丸」と表記されるようになった。このように考えるのがもっとも自然ではないかと考えています。