東広島市の中心部に当たる西条町西条は、酒造りで知られ、毎年秋には「西条酒まつり」という、それはそれは楽しい祭が開催される。江戸時代の宿場町であったため、現在も酒蔵通りと呼ばれる界隈を中心に江戸から明治、昭和初期の風情を残している。
さて、その西条の町並みの西のはずれ一帯を「西条東」という。江戸時代は西条東村であった。
西条の西側にあるのに「西条東」である。
実はこの地名には平安時代以来のこの地域の歴史が深くかかわっている。
現在の「西条」と「西条東」を隔てる小さな川を「半尾川」(はんのおがわ)という。
ところで「西条」とは、本来律令の頃に整備され始めた条里制にかかわる地名であり、西側の条理を意味する。もちろん単独で存在するのではなく、「東条」と対になるものである。
この地域にももちろん「東条」が存在した。その東条と西条の境界が先の「半尾川」なのである。
西条盆地という広島県の西半分(安芸国)で最も広い平地が、「半尾川」を境に東と西に分けられていたのである。
つまり、「西条東」は、文字通り西条の東のはずれにある村だったのである。
酒蔵通りのある「西条」は東条に属していたのである。それがなぜ「西条」と呼ばれるようになったのか。
「東 条郷」「西条郷」と平安時代以来呼ばれていたこの地域は、南北朝時代頃から二つを合わせて「東西条」(とうさいじょう)と呼ばれるようになる。それが 戦国時代くらいになると、頭の「東」という文字が取れて「西条」とのみ呼ばれるようになる。「東西条」というのは西条盆地だけでなく、最終的には東広島市 域の大部分の呼び名となっていたので、「西条」自体の示す範囲も非常に広域のものになってしまった。
その結果、「西条」で最もにぎやかだった江戸 時代の宿場町「四日市村」が西条の中心になったのである。そして、狭義の「西条」が「四日市宿」を指すように なってしまったため、本来「西条郷」の東端であった「西条東」が「西条」の西側になってしまうという逆転現象が起きてしまったのである。