2007年10月1日月曜日

安芸津諸島巡り その2 龍王島



“三津の桃島花咲く頃は浪の色まで赤くなる”

 第二回目となる今回は、龍王島について記述したいと思います。安芸津湾内では3番目に大きい島で無人島です。別名【桃島】とも言われ、地元の方には桃島の方が通りがよいようです。かつてこの島がまだ個々人の所有地で耕作が行われていた頃は、春先に風早駅から安芸津湾を眺めると、桃島が桃の花で埋まり、島も海も美しく輝いていました。

 『賀茂郡志』によると「早田原村に属す南海上二十町にあり、周回二十町丘陵をなし果樹栽培地たり、」とあります。風早村の歴史を綴った『手鑑扣』には「江戸時代は御建山(藩有地)で松の他余り木がなかったが不思議に良い水が湧き出た。古より龍王社を祭っていた」との記載があります。この社が後述する龍伝説と島の名前に由来すると思われます。

 江戸の文化年間、賀茂郡上三永村の医師藤原春閣が藩主浅野斉粛より褒美としてこの島を拝領し、その後三津の人荒谷超松の所有となり、明治十五年(1882)八月にコレラが流行した時は、荒谷一家はこの島に避難したようです。大正三年頃には「殆んど全部開墾せられて丘陵をなし柑橘類を栽培していた。」と『賀茂郡志』にありますが、第一回目で取り上げた藍之島と違いこの島に人が定住する事はなく、耕作も船による渡り作で行われていました。

 昭和十年八月二十三日、酒造家荒谷繁樹(超松)氏宅を俳人河東碧梧桐(かわひがしへきごとう)が突如訪問し、先日【三呉線十勝(現JR呉線)】の第四位に当選したという榊山公園や桃島(龍王島)、藍島(藍之島)をほろ酔い機嫌で探勝したと伝えられています。

太平洋戦争の末期になると、軍はこの島に防虫剤製造工場建設を計画し、荒谷超松より一万二五〇〇円で買い上げたが、終戦となったので再び地主の荒谷氏の手に戻った。しかし農地解放により小作人や大長村の人の所有地となり、結局荒谷氏はこの島を手放さざるを得なくなりました。その後島は企業による買収→開発という変遷を辿り、現在は自然体験村が建設され、毎年多数の方がキャンプや体験学習に利用されています。

 龍王島には「龍王島と三尾の毒龍」の伝説が伝わっています。

延暦九年、今からおよそ千二百年も前の遠い昔の伝説です。当時風早浦には古くから龍が住んでいました。相当の年数を経た龍で、人間に化けるのはお手の物でした。美しい娘に化けたその龍は村の若者の花嫁になりました。真夜中には龍の姿に戻り海に出て水浴びをし、家に帰っては若者と夫婦として暮らしていました。

 ある日のこと、妻の着物の裾に藻がついているのを不審に思った夫が、寝たふりをして妻が家を出た後を尾行し、海で龍の姿となって水浴びをする姿を見てしまいました。夫に正体を見破られた龍は三津の三尾山へ飛んで行き、山の岩穴に隠れてしまいました。この岩穴にはよい岩清水が沸いていて、村人たちはこの水で生活をしていたので、そこを赤青白の三本の尾を持つ龍が塞いだので水が出なくなり、近寄ると龍の毒気にあてられ、その年は旱魃も重なり困ってしまいました。現在の三尾(ミオ)という地名はこの三本の尾の毒気とつながるという説があります。

 このことを知った旅の老僧が、龍を退治する為の祈祷を行ったところ、龍は雷鳴を轟かせながら、風早浦の沖の海に沈んでしまい。この龍が島となったと言われています。

                  参考 安芸津風土記

                              広報あきつ昭和623月号