2009年6月30日火曜日
古墳時代の鏡(後編)
前回では古墳時代における鏡の役割について紹介しましたが、今回は東広島市の古墳から出土した鏡についてみて見ましょう。
まず、高屋町の白鳥古墳からは前回説明した三角縁神獣鏡が出土しています。これは日本で製作されたものであり、鏡の模様が非常に簡略化されています。とはいえ、三角縁神獣鏡は広島県内ではわずかにしか出土しておらず、白鳥古墳に埋葬された人物はかなりの権力を持った人物であったことが考えられます。
いっぽう、同じく高屋町の仙人塚古墳では直径わずか7センチの珠文鏡(しゅもんきょう)が出土しています。珠文鏡とは鏡の模様が中心の周りに小さな丸い玉状の模様が見られるものです。右の図が珠文鏡です。
古墳時代のはじめの頃の東広島市の古墳出土の鏡は以上ですが、古墳時代の中ごろになると権力の象徴が鏡から鉄製の武器に変わっていきます。その時代においてもわずかながら鏡が出土しています。
西条町の三ッ城古墳からは珠文鏡が出土しており、直径は6.5センチです。すくも塚では獣が並んでいる様子を表した獣形鏡(じゅうけいきょう)が出土しています。
これらの鏡は、ここで紹介した全てではありませんが、東広島市立中央図書館のガイダンスコーナーで見ることができます。機会があれば一度ご覧になって、鏡の移り変わりを感じ取ってください。
(仙人塚古墳の珠文鏡の図面は『広島県史』考古編から引用しました)
2009年5月19日火曜日
古墳時代の鏡(前編)
古墳時代の鏡でもっとも有名なのは卑弥呼がもらったとされる三角縁神獣鏡(さんかくぶちしんじゅうきょう)でしょう。この種類の鏡が卑弥呼の鏡とされる根拠としては、当時中国の魏王朝の歴史書、『魏志』の「倭人の条」(いわゆる魏志倭人伝と知られているもの)の中にある、卑弥呼が魏の皇帝への贈り物のお返しに銅鏡を100枚もらったという記述があります。三角縁神獣鏡は現在国内で100枚以上出土しており、中国では出土していないため、当時の日本(倭の国)に対して特別に作られたものであると考えられています。
実際、当時の邪馬台国の候補地と考えられている大和地方(現在の奈良県)を中心にたくさんの三角縁神獣鏡が出土しており、大和を中心とした政権が各地方へ主従関係を結んだ証しとして各地方の有力者に配った痕跡が残っています。
三角縁神獣鏡の話が長くなりましたが、他にも色々な文様の施された銅鏡が作られ、三角縁神獣鏡と同じようにいろんな地域の有力者に配られました。次では東広島市内で出土した銅鏡について解説します。
2008年2月7日木曜日
ひがしひろしまの地名 その4 「吉原」
それだけではなく、村の名前のつけられ方が他とは違う特殊なところもユニークな部分です。
というのも、この「吉原」という地名が中世にこの地の領主だった吉原氏の名をとってつけられているのです。
もともと、この地域は備後国則光(のりみつ)と呼ばれる地域でした。この則光は、東西に別れ、現在の吉原を中心に、飯田や世羅町内の中(なか)あたりまで含む地域だったようです。
吉原氏がいつ頃則光に土着したのか明らかではありませんが、15世紀末にはこの地域を指すと考えられる「吉原上口」という地名が古文書に見えますので、その頃には吉原氏の領地だという認識が広まっていたものと思われます。
吉原氏の名前が初めて古文書の中に見られるのは、1510年代前半のことです。吉原通親(みちちか)は、近隣の領主である三和町上壱(かみいち)の上山実広(かみのやまさねひろ)、三和町敷名の敷名亮秀(しきなすけひで)に、世羅郡内に所領を持つ吉田の毛利興元(もうりおきもと)を加えた4名で、深まる戦乱に対処するための盟約を結んでいます。
毛利氏以外の3名は世羅郡内に本拠を置く小規模な領主ですが、その名前に時代の特徴がよく表れています。当時の武将の名前は通常、前の字に主君からもらった字を使い(これを偏諱〔へんき〕を受けるといいます)、後の字に家に代々伝わる字を使います。毛利興元の場合は、「興」の字は山口の大名大内義興(おおうちよしおき)からもらったもので、「元」の字が毛利家代々の字になります。
上の3名も同様に考えることができますが、吉原通親の場合、「通」の字は庄原の有力国人領主山内氏の字です。
上山実広の場合は、三次南部の三若(みわか)に本拠を置く有力国人江田氏の「実」の字をもらったと考えられ、敷名亮秀は、三次を本拠とする三吉氏から「亮」の字をもらったと推測できるのです。
この3名は、世羅郡内の領主でありながら、それぞれ備後北部の有力者と結びつき群雄割拠の戦国時代を生き抜こうと考えたのでしょう。安芸の有力国人毛利氏を交えて盟約を結んでいるのも当時の切迫した時代状況をよく示しているといえます。
吉原氏はその後、16世紀の半ばまでには毛利氏に従属し、戦国時代の終わりには、石高630石余りを有する領主となっていました。
吉原氏は、関が原の戦いの後、毛利氏の萩移封に従って吉原の地を離れます。ところが、萩に移った吉原氏は、則光内の「神村(かむら)」という地名をとって神村氏と名乗るようになるのです。
中世の武士などの名字は、多くが本貫地(ほんがんち)と呼ばれる先祖代々の本拠地の地名を取ったものです。鎌倉時代に広島に移ってきた東国の武士たちはそれぞれ自分たちのふるさとの地名を名字としていました。毛利氏は相模(さがみ)国の毛利庄、平賀氏は出羽(でわ)国平鹿郡、小早川氏は相模国早川庄、宍戸氏は常陸(ひたち)国宍戸などです。吉原氏も駿河国の吉原から移ってきたものです。
一方、小早川氏の一族は、旧豊田郡の各地に土着し、そこの地名を名乗っています。豊栄の乃美(のみ)氏、能良(のうら)氏、大和の椋梨(むくなし)氏、和木(わき)氏、大草(おおぐさ)氏、河内の小田氏、本郷の舟木(ふなき)氏、梨羽(なしわ)氏など、本拠とした村々の名を名字としています。
「吉原」のように、東国から移ってきた領主の名前をとって村の名前にし、領主は逆にその土地の地名を名前にするという、いわばあべこべな地名と名字の関係はとても珍しいといえるでしょう。
2007年10月12日金曜日
ヤマトタケルの墓か?白鳥古墳
白鳥古墳は東広島市高屋町郷、標高453mの通称白鳥山の山頂に所在した古墳です。
白鳥神社はヤマトタケルノミコトを中心に祭る神社で、ヤマトタケルノミコトが伊勢の国で亡くなった時に白鳥となり、大和、河内、讃岐の国を巡ってこの山の山頂で姿を消したという伝説からこの名前が付けられています。(右の写真の鉄塔が立っている山が白鳥山)
この古墳は、古くから神社が建てられていたため、古墳の盛り土はほとんど破壊されていましたが、1910(明治43)年の社殿再建の時に土を削ったところから、石棺(せっかん)または竪穴式石室(たてあなしきせきしつ)と考えられる箱の形をした石組みが掘り出され、その中から三角縁獣文帯三神三獣鏡(さんかくぶちじゅうもんたいさんしんさんじゅうきょう)・三神三獣鏡(さんしんさんじゅうきょう)・碧玉製勾玉(へきぎょくせいまがたま)・素環頭大刀(そかんとうたち)が出土しました。
さて、この古墳がいつの頃に造られたかは、情報が少ないためはっきりとは断定できないのですが、4世紀の終わりの頃(古墳が造られた時代の最初の頃)といわれています。この頃の東広島市では、残念ながら鍵穴の形に似ていることで知られている前方後円墳(ぜんぽうこうえんふん)は造られておらず、才が迫(さいがさこ)第1号古墳といった鉄の道具をたくさん副葬した四角い形をした古墳が造られているぐらいです。本格的な首長と呼ばれる強い力を持ったリーダーが登場するまでは、まだいたらなかったようです。それはもう少し後の三ッ城古墳の主の登場を待たなければなりません。
このような経緯から古墳そのものはなくなってしまいましたが、副葬品は保存されています。これらの副葬品は広島県の重要文化財に指定されており、東広島市立中央図書館内の三ツ城古墳ガイダンスコーナーに展示されています。
また、古墳時代の人々がどのような思いでこのような高いところに白鳥古墳を造ったのかを考えるためには白鳥古墳へいくことをお勧めします。現在は車でも登れるので、休日にでも散歩に出かけてはいかがでしょうか?
※三角縁神獣鏡・・・鏡のふちが断面三角形状になる鏡。鏡の裏面には中国の仙人や神獣が描かれる。中国の魏の皇帝が卑弥呼に与えた『銅鏡百枚』の内のひとつとされるが、真偽については現在も学会で論争がおこなわれている。
※素環頭大刀・・・環状の柄頭を持つ刀の一種。日本では弥生時代から存在する。
※碧玉製勾玉・・・一般に考古学では碧玉とは不透明な緑色、または青緑色の美しい石材のことを言う。勾玉はC字状に湾曲し、丸く膨らんだ側に穴を通した装身具。旧石器時代の終わりごろから、古墳時代にかけての長い時代にわたってに存在する。
2007年10月1日月曜日
安芸津諸島巡り その2 龍王島
第二回目となる今回は、龍王島について記述したいと思います。安芸津湾内では3番目に大きい島で無人島です。別名【桃島】とも言われ、地元の方には桃島の方が通りがよいようです。かつてこの島がまだ個々人の所有地で耕作が行われていた頃は、春先に風早駅から安芸津湾を眺めると、桃島が桃の花で埋まり、島も海も美しく輝いていました。
『賀茂郡志』によると「早田原村に属す南海上二十町にあり、周回二十町丘陵をなし果樹栽培地たり、」とあります。風早村の歴史を綴った『手鑑扣』には「江戸時代は御建山(藩有地)で松の他余り木がなかったが不思議に良い水が湧き出た。古より龍王社を祭っていた」との記載があります。この社が後述する龍伝説と島の名前に由来すると思われます。
江戸の文化年間、賀茂郡上三永村の医師藤原春閣が藩主浅野斉粛より褒美としてこの島を拝領し、その後三津の人荒谷超松の所有となり、明治十五年(1882)八月にコレラが流行した時は、荒谷一家はこの島に避難したようです。大正三年頃には「殆んど全部開墾せられて丘陵をなし柑橘類を栽培していた。」と『賀茂郡志』にありますが、第一回目で取り上げた藍之島と違いこの島に人が定住する事はなく、耕作も船による渡り作で行われていました。
昭和十年八月二十三日、酒造家荒谷繁樹(超松)氏宅を俳人河東碧梧桐(かわひがしへきごとう)が突如訪問し、先日【三呉線十勝(現JR呉線)】の第四位に当選したという榊山公園や桃島(龍王島)、藍島(藍之島)をほろ酔い機嫌で探勝したと伝えられています。
太平洋戦争の末期になると、軍はこの島に防虫剤製造工場建設を計画し、荒谷超松より一万二五〇〇円で買い上げたが、終戦となったので再び地主の荒谷氏の手に戻った。しかし農地解放により小作人や大長村の人の所有地となり、結局荒谷氏はこの島を手放さざるを得なくなりました。その後島は企業による買収→開発という変遷を辿り、現在は自然体験村が建設され、毎年多数の方がキャンプや体験学習に利用されています。
龍王島には「龍王島と三尾の毒龍」の伝説が伝わっています。
延暦九年、今からおよそ千二百年も前の遠い昔の伝説です。当時風早浦には古くから龍が住んでいました。相当の年数を経た龍で、人間に化けるのはお手の物でした。美しい娘に化けたその龍は村の若者の花嫁になりました。真夜中には龍の姿に戻り海に出て水浴びをし、家に帰っては若者と夫婦として暮らしていました。
ある日のこと、妻の着物の裾に藻がついているのを不審に思った夫が、寝たふりをして妻が家を出た後を尾行し、海で龍の姿となって水浴びをする姿を見てしまいました。夫に正体を見破られた龍は三津の三尾山へ飛んで行き、山の岩穴に隠れてしまいました。この岩穴にはよい岩清水が沸いていて、村人たちはこの水で生活をしていたので、そこを赤青白の三本の尾を持つ龍が塞いだので水が出なくなり、近寄ると龍の毒気にあてられ、その年は旱魃も重なり困ってしまいました。現在の三尾(ミオ)という地名はこの三本の尾の毒気とつながるという説があります。
このことを知った旅の老僧が、龍を退治する為の祈祷を行ったところ、龍は雷鳴を轟かせながら、風早浦の沖の海に沈んでしまい。この龍が島となったと言われています。
参考 安芸津風土記
広報あきつ昭和62年3月号
2007年9月12日水曜日
安芸津諸島巡り その1 藍之島(あいのしま)
第一回目として取り上げる藍之島は安芸津湾内で2番目に大きい島で、現在は無人島ですが過去には人も住んでいました。この島について『芸藩通誌』には、「阿井島、三津村に属す、村の南海上一里余にあり、周十町許、高一町に足らず、故に、平山とも呼ぶ、」とあります。文化年間に伊能忠敬が行った測量によると藍之島は「周囲十二町四十七間」とありますが、当時と比べ、海岸沿いの土地は波による侵食を受けている為、現在の周囲はこれよりも少なくなっている可能性があります。
この島は初め芸州藩の直轄地でしたが、寛永二年(1749)当時の年寄役、木原保右衛門が三津村の所有とする旨を申請し許可をされ、その後保右衛門の所有となりました。
木原家の島となり、樹木植え付け別に数本の桜樹を植え付けたので、満開の候は近隣子女の遊覧地となっていたと云われています。木原新六の代に「大長浦の伴助に半分が売り渡され、伴助は作人を使って土地を開墾し、麦芋をうえた」と『三津村用所書付』にあり、この頃から藍之島の入植と開墾が本格化したのだと思われます。
大正三年頃には戸数十数戸があり、それぞれ耕作に従事しており、島の子供は本土の学校ではなく島にある小屋で教育を受けていました。本土より教師が渡船し、藍之島で授業をした後一泊し、次の日は大芝島に渡船し授業を行いそのまま本土に帰る。というサイクルでした。これをわずか二人の教師が持ち回りで行っていたそうで、台風で海が時化らない限り休むことが出来なかったため大変だったようです。
昭和十五年七月、広島鉄道局はこの島にテント村を建設し、島の南側に町立海水浴場がつくられました。しかし、かつて藍之島で生活をしていた人々は段々と島を離れ、昭和五十年代には平素は島に居らず、蜜柑の採取時に藍之島に寝泊りする程度になりました。現在に至っては、島の大部分が企業に買収された経緯もあり、耕作も行われず荒れるに任されています。
藍之島には明神祠があります。これは先述の木原保右衛門が寛永四年辛末二月十四日に勧請し建立されました。これを光海神社(光海大明神)といい、正徳・元文年間の郡村高帖、初等記の三津村の項に藍之島明神の名があります。祭りは二月端午社人抱えとあり、榊山神社の管理下におかれ現在でも行われています。旱魃の年には、七月七日夜雨乞祈祷を行って後、渡舟で藍之島に参拝して行事を終る習慣になっていたという事です。
明神の帆掛船は三津八景の一つに数えられています。
参考 安芸津風土記
2007年8月6日月曜日
ひがしひろしまの地名 その3 「土与丸」
吉行や助実,次郎丸などは人の名前のような地名ですが,これは平安末から鎌倉時代にかけて広く見られるようになる「名」(みょう)と呼ばれる行政単位の名残と思われます。ある一定の範囲の耕地から上がる年貢を取りまとめる人の名前をその耕地群に付けたものです。代が替わって他の人が年貢を取りまとめるようになっても代々その耕地群は○○名というように初代?の名前で呼ばれました。
一方,土与丸は人名によく使われる「丸」という字がついていますが,人名ではなく,別の意味があるようです。
土与丸地区には、「牛満長者」(うしまんちょうじゃ)という伝説があります。この伝説は、昔々土与丸に焙烙(ほうろく)を行商する男がおり、ある時松子山という峠道にさしかかると1頭の牛が弱ってうずくまっていた。かわいそうに思った男は弁当を食べさせてやった。こんなことが何日かあったが、ある日牛はついに死んでしまっていた。男がその牛に触ると牛は壊れて金になり、男は長者となって「牛満長者」と呼ばれたというものです。牛満長者の屋敷跡は「長者屋敷」と呼ばれ、敷地内には大量のスクモ(籾殻)を捨てた為にできたとされる「糘塚」(すくもづか)と呼ばれる土盛が残っています。この長者屋敷は「城の土居」とも呼ばれ、周辺には「城の橋」などの地名も残っており、周囲に堀跡が残る中世の平城跡です。城主の名などは、「牛満長者」としか伝わっていませんし、時代も不明ですが、土与丸地区で大きな勢力を誇った豪族であったことが推測できます。その屋敷と伝えられる「城の土居」はこの地区の中心的な存在だったと言えます。
「土与丸」の地名は、この「城の土居」がかつて「土居丸」と呼ばれていた名残ではないでしょうか。土居丸のドイがドヨとなまって「土与丸」と表記されるようになった。このように考えるのがもっとも自然ではないかと考えています。