吉原(よしわら)は、東広島市の北端に近い豊栄町内の地名です。かつては西隣の飯田村とともに備後国世羅郡に属した村でした。東広島市内で旧備後国だったのは、この2地域ですから、市内では特異な存在といえます。
それだけではなく、村の名前のつけられ方が他とは違う特殊なところもユニークな部分です。
というのも、この「吉原」という地名が中世にこの地の領主だった吉原氏の名をとってつけられているのです。
もともと、この地域は備後国則光(のりみつ)と呼ばれる地域でした。この則光は、東西に別れ、現在の吉原を中心に、飯田や世羅町内の中(なか)あたりまで含む地域だったようです。
吉原氏がいつ頃則光に土着したのか明らかではありませんが、15世紀末にはこの地域を指すと考えられる「吉原上口」という地名が古文書に見えますので、その頃には吉原氏の領地だという認識が広まっていたものと思われます。
吉原氏の名前が初めて古文書の中に見られるのは、1510年代前半のことです。吉原通親(みちちか)は、近隣の領主である三和町上壱(かみいち)の上山実広(かみのやまさねひろ)、三和町敷名の敷名亮秀(しきなすけひで)に、世羅郡内に所領を持つ吉田の毛利興元(もうりおきもと)を加えた4名で、深まる戦乱に対処するための盟約を結んでいます。
毛利氏以外の3名は世羅郡内に本拠を置く小規模な領主ですが、その名前に時代の特徴がよく表れています。当時の武将の名前は通常、前の字に主君からもらった字を使い(これを偏諱〔へんき〕を受けるといいます)、後の字に家に代々伝わる字を使います。毛利興元の場合は、「興」の字は山口の大名大内義興(おおうちよしおき)からもらったもので、「元」の字が毛利家代々の字になります。
上の3名も同様に考えることができますが、吉原通親の場合、「通」の字は庄原の有力国人領主山内氏の字です。
上山実広の場合は、三次南部の三若(みわか)に本拠を置く有力国人江田氏の「実」の字をもらったと考えられ、敷名亮秀は、三次を本拠とする三吉氏から「亮」の字をもらったと推測できるのです。
この3名は、世羅郡内の領主でありながら、それぞれ備後北部の有力者と結びつき群雄割拠の戦国時代を生き抜こうと考えたのでしょう。安芸の有力国人毛利氏を交えて盟約を結んでいるのも当時の切迫した時代状況をよく示しているといえます。
吉原氏はその後、16世紀の半ばまでには毛利氏に従属し、戦国時代の終わりには、石高630石余りを有する領主となっていました。
吉原氏は、関が原の戦いの後、毛利氏の萩移封に従って吉原の地を離れます。ところが、萩に移った吉原氏は、則光内の「神村(かむら)」という地名をとって神村氏と名乗るようになるのです。
中世の武士などの名字は、多くが本貫地(ほんがんち)と呼ばれる先祖代々の本拠地の地名を取ったものです。鎌倉時代に広島に移ってきた東国の武士たちはそれぞれ自分たちのふるさとの地名を名字としていました。毛利氏は相模(さがみ)国の毛利庄、平賀氏は出羽(でわ)国平鹿郡、小早川氏は相模国早川庄、宍戸氏は常陸(ひたち)国宍戸などです。吉原氏も駿河国の吉原から移ってきたものです。
一方、小早川氏の一族は、旧豊田郡の各地に土着し、そこの地名を名乗っています。豊栄の乃美(のみ)氏、能良(のうら)氏、大和の椋梨(むくなし)氏、和木(わき)氏、大草(おおぐさ)氏、河内の小田氏、本郷の舟木(ふなき)氏、梨羽(なしわ)氏など、本拠とした村々の名を名字としています。
「吉原」のように、東国から移ってきた領主の名前をとって村の名前にし、領主は逆にその土地の地名を名前にするという、いわばあべこべな地名と名字の関係はとても珍しいといえるでしょう。