第一回目として取り上げる藍之島は安芸津湾内で2番目に大きい島で、現在は無人島ですが過去には人も住んでいました。この島について『芸藩通誌』には、「阿井島、三津村に属す、村の南海上一里余にあり、周十町許、高一町に足らず、故に、平山とも呼ぶ、」とあります。文化年間に伊能忠敬が行った測量によると藍之島は「周囲十二町四十七間」とありますが、当時と比べ、海岸沿いの土地は波による侵食を受けている為、現在の周囲はこれよりも少なくなっている可能性があります。
この島は初め芸州藩の直轄地でしたが、寛永二年(1749)当時の年寄役、木原保右衛門が三津村の所有とする旨を申請し許可をされ、その後保右衛門の所有となりました。
木原家の島となり、樹木植え付け別に数本の桜樹を植え付けたので、満開の候は近隣子女の遊覧地となっていたと云われています。木原新六の代に「大長浦の伴助に半分が売り渡され、伴助は作人を使って土地を開墾し、麦芋をうえた」と『三津村用所書付』にあり、この頃から藍之島の入植と開墾が本格化したのだと思われます。
大正三年頃には戸数十数戸があり、それぞれ耕作に従事しており、島の子供は本土の学校ではなく島にある小屋で教育を受けていました。本土より教師が渡船し、藍之島で授業をした後一泊し、次の日は大芝島に渡船し授業を行いそのまま本土に帰る。というサイクルでした。これをわずか二人の教師が持ち回りで行っていたそうで、台風で海が時化らない限り休むことが出来なかったため大変だったようです。
昭和十五年七月、広島鉄道局はこの島にテント村を建設し、島の南側に町立海水浴場がつくられました。しかし、かつて藍之島で生活をしていた人々は段々と島を離れ、昭和五十年代には平素は島に居らず、蜜柑の採取時に藍之島に寝泊りする程度になりました。現在に至っては、島の大部分が企業に買収された経緯もあり、耕作も行われず荒れるに任されています。
藍之島には明神祠があります。これは先述の木原保右衛門が寛永四年辛末二月十四日に勧請し建立されました。これを光海神社(光海大明神)といい、正徳・元文年間の郡村高帖、初等記の三津村の項に藍之島明神の名があります。祭りは二月端午社人抱えとあり、榊山神社の管理下におかれ現在でも行われています。旱魃の年には、七月七日夜雨乞祈祷を行って後、渡舟で藍之島に参拝して行事を終る習慣になっていたという事です。
明神の帆掛船は三津八景の一つに数えられています。
参考 安芸津風土記